以下、体調が良くなってから、再度修正予定。
心身にダメージを負ったり、メンタルがやられても、後悔する必要はない。
慈悲が高すぎる人間は、人生にて心身ダメージを負うのは100%確定しており、心身ダメージを負った時点までは人生の第0章(単なる甘ちゃん)であり、心身ダメージを負ってからが人生の第1章である。
慈悲が高すぎる人間は、第1章(心身ダメージを負ってからの人生)にならなければ、【人間として生まれたすばらしさ】に気づけないし、【人助けを躊躇する、あきらめる】という行動もできない。
この文章を理解できるのも、おそらく第1章(心身ダメージを負ってからの人生)になってからであろう。
これはなにも上から目線の表明ではない。
私は【人間と仏の慈悲】についての経験も知識も豊富なため、このことを体感し理解し表明できる。
おそらく、あほな人間には理解できない。あほな人間がこの文章を読むと、私を非難したくなると思う。
基本的に、あほは人を非難する。あほは、お釈迦様ニタイシテモでも非難する。六波羅蜜の忍辱トイウモノガアルヨウニ。
真理、青本、「まんが 仏教的生き方」にはこう書いている。
p152。
「慈悲にまさる功徳はなく、心の平安にまさる悦楽はない。」
まず、以下の内容は、【仏や人が実施する「慈悲」の動作や挙動】を詳しく体感、研究、経験しないと理解できないかもしれない。
【仏の悲しみ】に接したことがある人間や、【仏の悲しみ】を想像した人間はいるだろうか。なかなかいないかもしれない。
私自身は、霊、神、仏に接した経験が多い方だと思う。霊や神に取りつかれるのは、西暦500年以降、1500年間に渡り文献に記載があるとおり、嘘ではないのだが、特に昭和中期以降に生まれた人間は、神仏霊を理解できず、例えば墓参りもしなくなったと思う。
まず、【慈悲が高い(高すぎる)人間および仏】は、集団(人間生活というのは基本的には100%、集団)において人と関わり心身(精神・自律神経・脳)にダメージを負うのは必定である。
必定。必ず定められている。
慈悲が高い(高すぎる)から、自分自身が後々、後遺症で心身にダメージを負うレベルの事故だと分かってても、人助けのためにその事故に介入せざるを得ない。
自分自身が後々、後遺症でダメージを負うレベルの事故だと分かっていなければなおさら、人助けのためにその事故に介入する。
「慈悲教育」を事前に10年くらい受講していれば、慈悲が高い(高すぎる)人間および仏は、心身にダメージを負わないかもしれないが、
人間も仏も、そんな事前教育は受けずに野に放たれる。
そのため、後悔する必要は全くない。
慈悲が高すぎると、必ず精神にダメージを負う。
ダメージを抱えないと、「高い慈悲」は生まれない。
これは人間でも仏でも同じ。
慈悲の高い人間も、慈悲の高い仏も、
「人を助けたけど、感謝されない。」
「人を助けたけど、なぜもっと早く助けてくれなかった。」と責められる。
こういう経験を大量にする。
すると、やはり精神にダメージを負う。ダメージを負わない場合、やはり慈悲心が無い。
「高すぎる慈悲」というのは、脳にダメージを負わないと生まれない。
脳にダメージを負うと、相手の痛みが、どんどん自分の痛みのように感じる。
ミラーニューロンという横文字を使わなくても、当たり前の事。
痛みが理解できない人間で痛みを感じない人間は、他人の痛みが理解できない。